昭和46年03月31日 朝の御理解
御理解 第70節
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」
人間は万物の霊長である。万物の霊長であるから霊長らしい、いや霊長としての値打ちを、いよいよ発揮でける、そのことを願いとして信心が進められていくなら、そういう姿勢をとらせて頂くなら、おかげは絶対それに伴うてくるもんです。何でもその焦点が間違っておると、どんなに素晴らしかってもそれは素晴らしいものになてこない。私は信心のお道の信心の焦点はここだとこう思うですね。人間は万物の霊長であるから、だから霊長としての値打ちを発揮でける。
そのために霊長としての精進又は生き方にならしてもらう。それに人間は万物の霊長でありながら、万物の霊長としての値打ちを創ることのために、精進をしないでただ立身出世、ただ自分を中心に幸せになろうという焦点を間違えて、さあ金だ物だ地位だ名誉だと言う様な、生き方をしたのでは、霊長でありながら霊長としての値打ちを発揮することは、もちろん出来ませんし、またその精進をいたしませんから、霊長としての値打ち霊徳を発揮することもできません。
ですから、決して立身出世をしてはならんというのではない。まぁ言うなら大臣を目指してもいい。けれども、その目指しは大臣ということが目指しではない。大臣にならしていただくということのために、精進を色々するのですけれども、その根本のところには、霊長としての値打ちのある人間、値打ちのある、いわば、大臣を目指さなければなければならんということなんです。大臣になって良くないことをして、沢山な金を儲かってそして、監獄行きをしたりする人もありますからね。
人間としての値打ち霊長としての値打ちを、いよいよ発揮することが人生だといったようなことをおいて、ただ立身出世の、いわゆる金を儲かるなら儲かるということだけに、思いをそこにおいておりますから、ちょっとした誘惑にも負ける、いわゆる心が狂うてまいります。いわゆる欲得のために心が狂うてくるのです。ですから私共は絶えず霊長としての値打ちを作っていくことのために、いつもそこに何か何かそこに導かれるものというか、そういうものを、求め求めして行かなければならん。
そこに人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬとこう言う。そこで、万物を見て道理に合う、道理に合う信心をせねばならぬ、道理に合う生き方をしなければならぬとこう言うのである。そこでまあいろいろな道理を教えて頂く訳なんですけれども、それをまあ教祖様風に申しますと、どういうことになるかというと、いわゆる、天地の心を心としてということになるでしょう。
これが一番間違いのない道理だと思う。天地の心を心としてと、その天地の心を心としながら、日月の心で精進していく日月の心で。そりゃまあいわゆる神様の心が分かる。神様の心に添い奉る生き方ということになります。しかもそれを今日一日だけしたからというのではなくて、日月のような正確さを持ってです、いわゆる実意丁寧神信心を持って、ここのところを日々修養していこうという事になるのです。
私共がねそこにいわば焦点、そこに精進をさせて頂くということになってまいります時にです。万物の霊長としての値打ちを、いよいよ発揮することが出来るだけではない、そういう心掛けにならせられることを、神様がお喜び下さるから、おかげが付いて来るのです。自分が立身出世をするためならば、それこそ人の持っておる茶碗でも、叩き落してでも、戦ってでも、自分が先に出ようとする生き方と言った様なものが、どんなにつまらないことかということが分かります。
昨日私はあるお書物を読ませて頂いておりましたら、これは仏教関係の方の書かれた本です。こんなことが書いてあります。「紫の衣、そは何か、金襴の袈裟、そは何か、僧都僧正、そは何か座す阿じゃりを、そは何か」と書いてあります。紫の衣とは何か、いわゆる、お坊さん達が愈々立身出世されて、最高の位を頂かれた時に、着る衣の事でしょうね。所謂金襴の袈裟を掛け僧都僧正、所謂大僧正とも言われるような。
その名義そのものが何になるのかと、座朱ですね阿じゃりを、そは何かと人から生き仏様のように、例えばその言われるということが、それは何かと。これは私はこれを読まして頂いてからいたく私の心をいわば捕らえた。というのは、私もそんな気持ちだからなんです。私はそもそもが、金光様の先生にならんで、金光様の先生という資格は、私はもらわなくても良いと思った。
もちろん教会の看板なんか、掛けようとも思ってなかった。だからそれこそここは布教所時代が、いわば長かったわけです。そりゃもう総代が五人出来りゃ教会になれるというけん、もう信心もなんもでけん、ただ寄せ集めて五人の名前を出してその教会になろうとする先生達の多い中に。もうそんな事なんか、もうどんなに例えば布教所であろうが、いや布教所という看板かけておらなくったって、教会の看板をかけていなくってもです。問題は人が助かる事さえ出来れば、それで良いのである。
これが教祖様の御精神でもあったし、また私共それを受け継がせて頂いて、そこのところ以外何にもない。紫の衣緋の衣も着ようとも思わない。例えばお道でも段々信心をしてまあ、いろんな偉い役をされるようになります。そすと教官と言った様な職があります。もういうならお道の信心でいう、総理大臣であります。そういうね、金光様の先生になったからにはどうでもこうでも、教官にはぐらいならにゃと言った様なね、意気込んでおられる先生達が沢山あられるのじゃないかと思いますね。
そのためにはその下のほうの、いうならば職をするでも、選挙の時には愈々それこそ、選挙運動をして回られますからね。名誉にとらわれたら、万物の霊長としてのね、値打ちまでも損なう結果になりかねないのです。なるとは言いません。それは立派な方もあります。いわゆる僧都僧正そは何かである。そして段々そういう偉い先生達が年を取っていかれると、長老とかと言うような言葉が、やっぱ送られます。
誰からも知られなくても良い、地位なんか全然問題じゃない。問題は人が助かることさえできれば。ためには自分自身が本当に助からなければならない。自分自身が本当に助からずして、人を助けることが出来るはずはない。だから自分自身が真実助かる事の為に、精進をする以外には何にもない。またのご理解に「狐狸でさえ神に祭られることを喜ぶというではないか、人は万物の霊長なれば、死したる後神に祀られ、神になることを楽しみに信心せよ」とあります。
万物の霊長なれば死したる後、神に祀られ神になることを楽しみに信心せよ。今日の御理解のところは、万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心をせよ。道理に合う信心をさせて頂いておるとです、所謂そこが焦点であるとです。おのずと備わっておるところの、霊徳というものが、所謂発揮出来れることになる。霊徳が磨かれる、そこからです自分自身が助かることのできる道が、おのずと開けてくる。
信心はわが心が神に向こうのを信心というのじゃと仰るように、所謂自分の心が、愈々神に向うて進んでいく、霊長としての値打ちを、愈々発揮していく事が出来る事を楽しみに信心していくならばです、それが神になるのを楽しみであり、神に祀られると言う事が、有り難いと心得て、信心させて頂いておると言う事になる。紫の衣を着てはならぬというのではない。金襴の袈裟を掛けてはならぬというのではない。
僧都僧正、最高の例えば、位を貰ってはならぬというのでもない。けれどもそれが目当てであってはならないと言う事なのである。私共が目指させて頂くのは、どこまでもです、わが心が神に向こうていくと言う事、霊長としての値打ちを、愈々発揮して行く事ができると言う事。ために万物を見て道理に合う信心、そこであの万物を見て道理に合う、様々な道理があります。
けれども一番間違いのないのはです、天地の心をまず知ること、神様の心をまず分かること、いわゆる神の心を心として、天地の心を心としてと言う事になる。しかもそれを日月の心を持って精進していく。日月の心実意丁寧神信心を持ってそれを行じていく。その目的は大臣になるためでもなからなければ、僧都僧正になると言う事が目的でもない。ただ自分の心の中にです、それこそ我とわが心が拝めれれる喜び、自分の心がいよいよ豊かに大きゅうなっていく心。
所謂自分自身が愈々楽になっていくと言う事。先日から頂くように、心が大きくなって行くと言う事、そのことが楽、楽とは心が大きくなる事だということになる。心に障ることがなくなってくる。助かった人の姿である。人間は万物の霊長これは例えば、人間以外の動物が、いかに精進したからというて、神様になると言う事は出来ません。これは人間だけが許された。
だからこそ霊長として、という言葉を持ってしてあるわけです。だからほんなら誰でも、人間は万物の霊長だから、神になれるかというとそうではない。その精進を、させて頂くものの上にだけ頂けるものなんです。霊長としての値打ちを、愈々発揮でける事のための精進をするものだけ。それは霊長としての、資格は持っとるでしょうね。霊長としての資格、けれども霊長としての値打ちを発揮せずに、それこそ他の動物とあまり変わらんような、汚い生活をしておったり、ただ人間万物の霊長でありながらです。
道理に合わない生き方、いわば名誉の亡者又はお金の亡者、もう何か名誉職のようなものを自分がもうそれこそ、金を使うてからでも、名誉を得ようとする。もう名誉欲もう欲の中でも、名誉欲ぐらい汚いものはない。私はそげん思う。いや神様がお嫌いになることもこのくらい嫌いなさることはないと思う。というてほんなら名誉はね、つまらないというのではない。
名誉ある例えば職なら職を与えられるなら、それは頂いてもいい。それはなおさら有り難い。けどもそれを自分が人を陥れてからでも、得ようとする心は汚い。これは神の気感に叶わん。金銭欲でもそうである。物欲。私共が大体今申しました様な事が、分からして頂く。私どもが生きる焦点とでも申しましょうかね、生きる焦点それは霊長としての値打ちを発揮していくことのためにある。
それぞれの立場それぞれの御用の中に、人間らしい生き方を願いながらの生活、そこで、私共はね、まめなとも信心の油断をすなとこう申します。どんなに調子が良いからというてです。ここのところの焦点を置いたら、人間誰しも同じですけれども、すぐ後戻りをしてしまう。そこでねまあ一つのまた、そのための焦点ということになるでしょうが、昨日、今度学院に入らせてもらいます修行生の方達が、全部試験を終わってから、昨日、ちょうど夜のご祈念の時間でした。
皆帰ってまいりました。その試験の受けさせて頂いた中に、いわゆる金光大神の中から、色々試験が出ました中にですね、教祖様が、ある先生に言うておられる言葉の中にね、利発になるなと、利口者になってはならぬと、というようなことを、教祖様が教えておられるが、それはどういうふうに解釈させて頂くかという意味のことが、試験に出たというて、言うております。
これはね人間が利発になる利口になりますとです、いわゆる人間のほうを相手にする様になります。金儲けのほうを焦点に置くようになります。だからいわゆるあっちは、大変利口もんとか、金儲けの名人とかと言われることはでけてもです。神様からごらんになると、神様の心に反したことばっかりになっておる。私共は人間のほうを見らずに、取分けお道の教師をさせて頂くなら、信者の顔色ばっかり眺めておらずに、神様の顔色ばかりを、いつも伺かごうておけば良いのである。
ためにはほんならあっちは、ちった馬鹿じゃなかろうかと言われる位にならなければ出来ません。所謂人から笑われても神様からは、笑われてはならんという生き方なのです。だからそれは非常にそれが非道理に見えましたり、不合理に見えたり馬鹿らしゅう、又は見えたりする事があります。神様のほうだけを向いていく生活、なるほど大きゅうならなければ、成程馬鹿と阿呆になとっかなければ出来る事ではない。
これはもう私の終始その事を焦点にして参りました。人間心を使わない所謂神様から、笑われちゃならん。人間から笑われても、神様から笑われちゃならんという、所謂生き方そういう生き方がです、一つのその人の信心の筋金にまでなって来る様になりますと、私は愈々万物の霊長としての値打ちを発揮していく働きがあると働き掛けが。いわゆる利口もんになっちゃならん、利発さというものはいわば邪魔になる。
だからほんなら気の効いてあるとか、利口もんがいけないというのじゃない。だからそういう人は、取分け心掛けさせて頂いて、本気で馬鹿と阿呆になる稽古をしなければならんと言う事である。そんためには矢張り神様の心が分からにゃいかん。神様から笑われちゃならんと言う為には、神様の心が分からなければならない。所謂天地の道理を分からなければならない。
そしてその心に添い奉らして頂こうという願いを立て、生活させて頂く事に成って来る。だからその過程においてはです。人からは笑われる場合があるかもしれん。笑われて愈々賢こうなる、ほんとの意味に於いて。叩かれて愈々強うなる、そういう生き方を身に付けて行くと言う事。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならん。愈々万物の霊長としての値打ちを愈々発揮できれるおかげを頂きたい。
霊長としての値打ちを発揮出来る、そこのところが矢張り根本になってこなければならない。霊長としての値打ちを発揮していく生活、そういう人間生活をです、地を持って進んでいかれたのが、教祖金光大神だと私は思います。そこに最近言われる、金光大神のいわゆる生きられ方というのを、身に付けていかなければならん。
だから、その生き方、場合によっては、ほんとに普通の人間から言うと馬鹿のように見える生き方にも見えるかもしれんけれども。そういう生き方を積んでいくうちにです、霊長としての値打ちを、いよいよ発揮できれる。教祖様の奥城に出らして頂きますと、あの奥城に、威号ですね、いわゆる送り名が、どういう事が書いてあるかと言うと、人間脅しの命と書いてある。人力脅しのみことと書いてある。
人間じゃない人力。人間の力を持ってそれこそ世の中をあっといわせる様な働き。それは頭が良かったから、器量が良かったから技術が良かったからではなくて、所謂人間の心一つでです、世の中をあっと驚かすほどしの事が出来られたと言う事なのです。所謂霊長としての値打ちをです、不意に現される事が出来たというのであります。それには人からは、ほんとに馬鹿じゃなかじゃろうかと思われるようなことをです。
これが本当だということは、それを平気で、いわゆる有り難くなさった。まだお百姓なさっておられる時でも、今年はお米がよく取れたからと言うて、上納を、いつもの倍も納めてありなさっておられますからね。それこそ、その当時の、上納こぎりといった様な事でね、百姓一揆まであった時代であります。そういう時代にね、それが有り難く出来られたと言う所に、教祖の教祖たる所があります。そういう生きられ方所謂教祖金光大神の生きられ方を、私共が勉強すると言う事は。
だからそれはそのまま、天地の心を心としての生き方を頂いて行くと言う事にもなるのです。しかもご性格的にあのような実意丁寧なお方であったと言う事が、愈々日月の心を持って、神様の心を行じそして表して行かれたと言う事になるのです。そこから生きながらにして、生神とまで天地の親神様から、御神号をお受けになられると言う所までにもなり、助けられる者からは、それこそ生神様として崇められなさる様な所にまで、おかげを蒙られたわけになる。
それで私は思うんですけども、お互いに器量が良いとか悪いとか、一人一人違いますように、自分もまた一人一人違うのです。頭が良いとか悪いとかと言う事に。ところが天地の親神様はね、私共人間氏子に一様におかげを下さってあるのです。それは器量とか力ではありません。神様が一様に下さってあるのは、誰でも精進さえすればです、万物の霊長としての値打ちを発揮できると言う事が同じなのです。それを私は本当に日本一を目指そうとというて頭が良いとか。器量で日本一になるとかは。
それも出来る事ではありませんから。お互いがです目指さなければならんのは、日本一有り難い私になろうと言う事なんです。是なら誰だって願えれる夢じゃないです。私は大臣になろうなんてはこれはね、それこそ夢のまた夢の様な感じがします。誰でも彼でもそんなに大臣を目指して、皆が大臣になると言う事も出来ませんのですから。けども私達が日本一有り難い私になろうと言う事になるならばです。
是は誰でもが目指される所の夢であります。私は思わん他の事では出来んけれども、有り難いという意味においてはです。私は日本一有り難い私にならせて頂こうと思うとる。日本一を目指しておる。だから皆さんだって同じ事。日本一有り難い私にならせて頂こうと言う願いならば、誰でも持てれるのです。頭が良かっても悪かっても、そこに人間最大のです幸福、だけではありません、それこそ死したる後、神に祀られるというほどしのです、おかげも約束されるわけですよね。
どうぞ。